本野精吾(1882.9.30.-1944.8.26.)は、東京に生まれ暁星中学から第一高等学校へと進み、1906年東京帝国大学工科
大学卒業後、三菱合資会社(三菱地所)の技師となる。その翌年(1907年)に卒業した内田祥三(1885.2.23.-
1972.12.14. 東京生まれ、開成中学から第一高等学校に進んだ)が同じく三菱合資会社に入社し、保岡勝也と3人で
『三菱第12号館』(のちの三菱仲8号館、千代田区丸の内3-8、1907年7月着工・ 1910年8月竣工・1956年取り壊し)
を担当する。

しかし、1903年に京都高等工芸学校図案科教授に就任した武田五一(1879年帝国大学工科大学造家学科卒)が
議院建築視察のため、1908年に欧米に行くことになり、同年本野精吾が教授に招かれる。

実際は、京都に赴任することには気が進まなかったが、ドイツ留学が魅力で承諾したという。(本野博子様の言)
1907年には中沢岩太校長の右腕として、京都高等工芸学校の充実発展に尽力していた洋画家 浅井忠が急逝しており、
本野教授の責任は重大であり、ドイツ留学の影響を受けた建築を建てる機会は少なかったが、戦時下において教え子を
戦場に送り出す苦痛に耐えながら、浅井忠の遺志を継いでデザイン全般を研究して大きな役割を果たす。また晩年には、
筆墨を執って南画の研究にも勤しむ。

一方、内田祥三は1910年東京帝国大学大学院に進み、佐野利器のもとでコンクリート、鉄骨等の建築構造の研究を深める。
1911年同大学講師、16年助教授、21年工学部教授となり、1923年営繕課長を兼務して関東大震災後のキャンパス
復興を指導して、所謂「内田ゴシック」と呼ばれる見事な建築で(現在の東京大学)本郷キャンパスや駒場キャンパスを
つくり上げた。そして、1943-1945年には 東京帝国大学 第43代総長に選ばれる。

一方、本野教授は、ちょうど白井晟一が入学した1924年に『本野精吾自邸』(京都市北区等持院)を中村鎮式コンクリート
ブロックで建てるが、1930年の『京都高等工芸学校本館』(現在の京都工芸繊維大学「3号館」)は、最初コンクリート
打ち放しで計画されていたようだが、内田教授の影響を受けてか、スクラッチタイルで建てた。当時、F.L.ライト設計の
帝国ホテルが関東大震災でも倒壊しなかったことから、スクラッチタイルが注目されていたことも一因と言えよう。

白井晟一(1928年卒)がドイツ留学中に、京都高等工芸の先輩でもある向井寛三郎教授(1911年卒、1889年大阪府交野市
生まれ-1958年歿)が1931年にドイツに到着するが、教材資料の買い付けの為にと本野教授より送金されていた(向井教授
の「滞欧日記」より)。
従って、白井晟一に300マルク貸したことも、向井教授は(本野教授に)打ち明けられたであろう
し、
本野教授は当然、白井晟一の様子もご存知であっただろう。恩師の温情を胸に抱いて、やっと一廉の仕事ができるよう
になったと、報告に行った時には既に恩師の姿はなく、書斎棟を「緑桂山房」と命名された起となった1本の美しい金木犀の
高木が迎えてくれたのであろう。漢名は丹桂である。
それが、私が「1964年の東京オリンピックの頃に出会った」瞼の腫れた白井晟一であったとしたら、全て納得がいく。

そして、この研究会をしている拙宅にも100年に近い1本の金木犀の木があって、ここ数年間に2階の窓上の高さまで繁り、
毎年、芳香の満開の花を咲かせるようになり、本野邸のことや白井晟一が静岡の芹沢美術館前庭を金木犀で囲み、
また最期の住宅に「桂花の舎」と名付けたことを思い出さずにはいられないのも、不思議なご縁である。


          中沢岩太博士 : 1879年旧制 東京大学理学部化学科卒
               1887年帝国大学工科大学教授
               1897年京都帝国大学理工科大学の創設に伴い初代学長に就任
               1902年新設された京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の初代校長に就任
               その準備として1900年のパリ万博視察の折、フランス留学中の浅井忠に招聘を告げた
               であろうという話は有名である。





       
        
        

平成23(2011)年 KIT同窓会誌No.5掲載

平成25(2013)年 会誌No.7

平平成26(2014)年 会誌No.8

2022 .1 .24. 追記
2021.10.10. 更新

Prof. MOTONO Seigo

恩師 本野精吾教授