2011年11月15日 ― 2012年4月15日
白井晟一 in 京都
昨年東京で始まった間違いだらけの白井晟一「巡回展」と文献を正す! 正解を知りたい方は、
錦秋の京都にお集まりください! 白井晟一が育った町を歩きます。
昨年来「巡回展」に関して、当研究会は(実行委員会から)何ら問い合せや相談を受けたわけではないので
全く責任はないのだが、社会に誤った認識が広まらないように、初期から出来る限りの忠告をしてきた。
さらに、京都へ来ることすら聞いていないのに、罪もない母校の後輩学生たちが、(公式カタログと称する)
偽りの多い出版物に模型制作協力者として名を列記されていることに胸が痛み、KIT美術工芸資料館に5月23日の
初日雨のどしゃ降りの日から、母校の信用と名誉の為にも、確認に出向かねばならなかった。
2階の会場入り口に掲示された巨大な「白井晟一略年譜」パネルに、私ども研究会が最も指摘・忠告していた
「第4回高村光太郎賞造型部門受賞」に訂正されていたので安堵したのも束の間、当研究会に参加した方々
なら、決してそのような間違いはしないようなミスが起こっていることに驚き、いくつか修正箇所を指摘し、極力
修正されたが完全ではなかったので、このHPで解説することにしました。
また、白井晟一留学時代を綴ったドイツ語の手記がタイトル表示なく展示されていたが、これは所有者が表記し
なかった為だろうか―1931年10月といえば、母校から向井寛三郎教授がドイツに留学して来たのを出迎え、教授との
交流が始まるが、翌年2月には向井教授より300マルク借りて交流が途絶える。
(向井教授「滞欧日記」:研究会会誌「景窓」bQ
白井晟一が留学中にドイツで、母校・京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の教官に会った事はなかっ
たのか、それが私は最初に抱いた疑問であったので、虚白庵で質問すると、実は生前に家族に打ち明けていたこと
がわかった。 「・・その夜の虚白庵の一抹の事件を象徴するかのように、外は秋の嵐が吹き荒れていた・・」
研究会会誌「景窓」−「虚白庵追想」に掲載
嘗て、虚白庵の玄関正面に飾られていた額装の書はどうして「圓光」(えんこう)と読めるのか― 2002年に解読し
て、当研究会で説明しています。当時、白井研究所では「國光(こっこう)ではありませんか?よくわかりませんけど」
という回答だった。 <研究会では臨書も出来ます。是非お越し下さい>
Light Up 清水寺:夜の特別拝観
2011.11.26. (C) SSSC