バルコニーの西方から東方を望む
カーブの美しさが圧巻!!
2017. 2. 5. 更新
2014年10月(快晴) 撮影
正面は、屋外に増設された倉庫。
大雪のために屋根が破損したので、
プレハブ(右端)が設置された
今も保存されている「附属棟」の「使丁室」
の出窓. (竣工当時は「引違い竪ガラリ戸」)
床の間の設えにも白井作品の
特徴が見られる
「天井 1級品敷蒲打上げ」 蒲(莚)天井を
白井晟一は好んで使った。**
(竣工当時は埋込み照明)
2F踊場は広いホール、左手の部屋も現在も
使用。天井・内壁 モルタル塗り吹付け仕上、
引違いガラス戸・出入り口扉 ガラス厚5mm
大きな背の高い黒い「スチールサッシュ」の窓は、
白井作品の特徴。広い「テレス」によって開放感が一層
強まっている。窓辺には郷土資料が展示されている
バルコニーから、小雨に煙る西方の妙義山を望む
今も保存されている宿直室の掛札
この美しい長いカーブと列柱の白い建物が、どのような立地条件で建てられたのかを実際に足を運んで
知った時、よくぞこの環境の中で多大なロマンを人々に与え得る建築を創ることができたと、唯々感動する。
韓国の宗廟について、白井晟一は「印象は思わずうなってしまうほど強烈であった」と『東洋のパルテノン』
で記しているが、その屋根の長さ101mには及ばずとも、アテナイのパルテノン神殿の基壇の幅30.9m(長さは69.5m)
を超える41.81m(138尺)という幅を実現して 、正に「日本のパルテノン」否これぞ「東洋のパルテノン」と
ほくそ笑んだことであろう。「建築を通して人民大衆に矜り(=誇り)と望みを与え、人権擁護の闘いに率先することが、
われらの任務であろうし希い(=願い)だからである」と『天壇』の中でも述べた白井晟一の気概が伝わってくる。
美しい宮殿を思わせるカーブには、民衆こそ、その主役になり得るという白井晟一の強い信念と万民への熱き想いが
感じられる。 そして、その想いに応えるかのように、今も猶、安中市の埋蔵物の保管と修復の場として保存活用されて
いることに感謝と敬意を表したい。 工期 1955年7月ー12月、 施工 鹿島建設
(耐震強度が危険な為に、2016年11月現在、内部見学は不可となっています)
『東洋のパルテノン』 白井晟一
ソウルの昌徳宮にある宗廟の建築は李朝歴代の王と王妃を祭るいわば韓国のパルテノンである。そのひかえめだが
堂々たる偉容は、まさにパルテノンとよぶにふさわしい。
前庭の石畳は中高で三方の外廊へゆるやかに勾配しているが、その茫とした広がりは、祭殿の単調な長棟の
無限感を一層たすけているように見える。太く自由な目地で敷かれた一つ一つの石の面は大きく、もちろん十分な厚みを
もっているのであろう。私が何年か前、はじめてこの建物に接した時の印象は思わずうなってしまうほど強烈であった。
礼拝の対象となる宗教的な建造物が、奥行が浅く、横へ長くのびてゆくというのは西欧では考えられない。
信仰の対象が唯一神であるなら、ひたすら天へ伸び、聳えようとする。この李王宗廟は世紀にわたって数回の建て直しを経、
現在の形になったものだというが、同じように祖霊を祭る意図があっても、中国にも、日本にもこうした横長の霊廟は造られ
なかった。
十九間、同じようにエンタシスをもつ列柱でくぎられた、いわば素っ気ない空間だが、これは人間の平等観を基底にもつ、
つまり歴代の祖霊を等しいものとする並列感覚からでたものとは考えられない。むしろ李朝文化にながれている強靭な持続性
への信仰の自信であり、それがまた民族の永遠性を祈る積極的な象徴となっていると考えて間違いない。
――『日記から』1977.1.19.(朝日新聞の2週連載コラム)
* 十九間は1.8m×19=34.542≒35m
** 宗廟(そうびょう・チョンミョ)の正面は約35m、側面は約5.5m、1394年着工。正殿の長さは東西で101mにも及ぶ。
「西宮回生病院」正面玄関や診療棟
(1937年頃竣工・作者不詳)
御前浜公園に近い、美しいカーブの建物として
親しまれたが、2015年7月解体
(2015.7.5.工事開始前日撮影)
JR信越本線「西松井田」駅の陸橋から広々と
した松井田の町を見渡す。「松井田町役場」は、
まだ見えない
ひと気のない静かな道を進むと、緩やかな丘
の上に突如白亜の殿堂が現れる
玄関正面にある美しいカーブの階段が、2階へと
誘(いざな)う。白井作品の特徴でもある
古い時計もそのままに飾られてあって、趣のある階段室.
「壁 モルタル下塗り吹付け仕上」
南側にあるバルコニーの大きな窓で明るい室内は、ジグソー
パズルのような大変な埋蔵品の修復作業にも貢献していた。
「天井高 3m3cm」 右壁裏に和室がある
「和風会議室」の「天井 高さ7.80」≒2m36cm
「下り天井 高さ6.40」 ≒1m93cm
「羽後病院」 の図面
(1948年・白井晟一・秋田県湯沢市)
カーブではないが、直線での横長の拡がりが表れている。
2006年2月に 丸臣高久建設の協力で発見。
白井晟一研究会でご覧になれます
* 「 」は設計図で記されている名称. 寸法は尺をm単位に、カタカナ表記は漢字と平仮名に直しています.
**白井作品の中で、蒲(莚)天井は
@土筆居書屋の居間=夫人室(1953年) Aアトリエ6の階段室(1955年) B松井田町役場(1956年)
C奥田邸(秋田県大仙市 1957年) D海山居(1968年) E浄智寺庫裡 原案(1983年) などに使われている。
本来、莚(蓆)天井は、お茶室の点前座の落ち天井(下り天井)に多い。落天井は客に対する亭主の謙遜の気持ちを表す。
埋蔵物が綺麗に整頓されて収蔵されている
屋根のデザインが船底天井に活かされている
東側から見る。右端が「附属棟」の一部
<参考>
1F「引違いガラス戸 4mm大波モール」 天井高2.85m「正面扉巾 1.12m、6mm磨きガラス」2枚
殺風景になりがちなバルコニーの
壁面にもデザイン性が素晴しい
「附属棟」にある1F手洗所
(通路の右側)
「赤坂離宮」 (1909年・片山東熊設計)
「原爆堂計画」
(1954−1955年・白井晟一)
白井晟一研究会でご覧頂けます
(2016.10.見学撮影)