白井晟一「原爆堂計画 パンフレット」  1954-1955 
                             「白井晟一研究会」で所有・掲載資料はいつでもご覧いただけます


数年来、その特異なデザインは、一体どこから考案されたのかという質問が多かった。
白井晟一の初期作品「秋の宮村役場」について研究したときから、その地域の歴史的建造物や伝統を調べ、影響を受けていることに気付く。決して、構造上の理論が先にあったわけではない。
証明すべく、広島に降り立った。 
1945年8月6日の広島被爆の3日後に、丸木位里・俊夫妻は、太田川畔の
実家の安否を訪ねて、惨状を目撃し、救援活動に従事、1955年に
「原爆の図」(1.8m×7.2m、14点収蔵。もう1点は長崎で収蔵)を発表した。
白井晟一はこの話に感銘を受けて設計に当ったというが、「残虐な記憶」を
蘇らせるよりも、水を求めて喘ぎながら息絶えた人々に十分な水を与えて
あげたい、或いは水中に避難していたら助かったかも知れない、さらに今後もし
惨事が起こった時の避難場所になるかも知れないという、慰霊の念を込めた
ものだろう。美術館というよりは、寧ろ「祈りの聖堂」に近いもので、それ故
MUSEUM、MEMORIAL ではなくて TEMPLE なのである。
つまり、二度と
起こしてはならない 、と強く訴える表現力に欠けている。
 
 広島と言えば日本三景の一、厳島(宮島)が思い浮かぶ。 
              

!st floor plan       basement plan

COMPOSITION 
1.temple 2.museum 
3.open stage
4.limpid pond 
5.top light
6.ballast court 
7.green 
8.fire tower

 「秋田の人々は雪をおそれている。・・・1950年の秋、
村の民家にモチイフを得て、その年の初冬から51年の春、
木の芽の萌える頃まで橇にのり、ゴム靴をはいて、この労作に通った。・・・(中略) やがてはその風土自然に導かれるような,ほのぼのとした建物が民衆を目標として・・・(中略) この地方の人々の将来にとってその希望をしめすささやかな道標ともなり得るならば望外のよろこびである。」
             
 ―― 「無窓」第1話
                      研究会会誌「景窓3」より 

     『原爆堂について』   白井晟一

 TEMPLE ATOMIC CATASTROPHES は1954年からの計画である。私ははじめ不毛の 曠野(=広野)にたつ愴然たる堂のイメージを逐(=追)っていた。残虐の記憶、荒蕪な廃墟の聯(=連)想からであろう、だが構想を重ねてゆくうちに畢竟は説話的なこのような考え方をでて自分に与えられた構想力の、アプリオリな可能性だけをおいつめてゆくよりないと思うようになった。概念や典型の偏執から自由になることはそのころの自分にとって難しい、大きい作業であったが、悲劇のメモリィを定着する譬(=比)喩としてではなく、永続的な共存期待の象徴をのぞむには、貧しくともまず、かつて人々の眼前に表れたことのない造型のピュリティがなにより大切だと考えたからにちがいない。堂は直径九米(=9m)程の円筒が、眼にみえぬほど静かに流れる透明な水の中から、1辺23米の方錐を貫通するという形をとった。そして軸のシリンダァと梁と壁をいくつかのキャストに分け、これを求心的に風呂桶の箍(=たが)で引締めてゆくといった工法を、力学の最も原理的で素撲(=素朴)な方程式で追求してゆくことであった。                                                                                        ―― 初出は「新建築」 1955.4月号                                   
                      
 ( )内に現代用語を付記しました. 文中 「方錐」は「方柱」に修正されるべきであろう.


 
   『親和銀行本店』
   
   
(前文略)
 発想はながく私の郷愁だとされている1955年頃の原爆堂計画だと指摘する人もある。事実オクタゴナル半分の塊りを変形半円筒で打ち抜いたかたちは原爆堂のプロフィルが原型だといわれても、誰も私もまたさからわないだろう。                            
 (以下略)                
                                        
 ―― 初出「建築雑誌」 1969.8月号
 

 

    

大鳥居

嚴島神社

!st floor plan

1. approach アプローチ
2. loggia  開廊、ロジア
3. stair   階段
4. information 案内所
5. cloak(room) クローク,,手荷物一時預かり所
6. library  資料閲覧室
7. drawing (room) 客間 
8. ante(room) 控室
9. bureau   事務室
10.director & reception 所長室+応接室11.store   収蔵庫
12.balcony バルコニー
13. lobby   ロビー
14. gallery  ギャラリ− 、展示室
15. store space 備品置き場 
20. stairdrum 円筒形(シリンダー)階段室 
21. clarte passage 光廊
22. gallery  ギャラリ− 、展示室
23. glass case 展示用ガラスケース
24. balcony   バルコニー

basement plan
16. sub-hall   地下ホール
17. electric   電気室
18. service   設備室
19. sub-way  地下道
20. stairdrum 円筒形(シリンダー)階段室

  英文 (  )内と日本語訳を、研究会が付記しました 

TEMPLE ATOMIC CATASTOROPHS
               「
1955 August
と記載されている

TEMPLE
ATOMIC
CATAST
OROPHS

表紙

詳しくは、会誌「景窓」をお申し込みください メール

「羽後病院の図面」
白井晟一研究会所蔵・丸臣高久建設の協力で2006年2月に発見

白井晟一のデザイン発想

あの日がなかったかのように、瀬戸内海の自然はあまりにも静かで美しい。
この大鳥居は浮かぶ如くに(自重で)立って、陸地の嚴島神社と呼応して
いる。白井晟一の描く陸地の「くの字」型の建物(エントランス パビリオン)
もまた、嚴島神社の本殿を取り巻く柱廊のように、オープンなロジア(開廊)
になっている。そして、この「くの字」型の建物こそは、初期作品
「羽後病院」(1948年・秋田)で使われた、凹面の温かく人々を受け
入れる空間を創り出すものだ。
そして、立方体を水平に切った(方柱)中心を貫く「シリンダー」が登場し、
これは作者自身も語るように、代表作となる「親和銀行」のデザイン他に
活かされることになる。しかし、長崎・大波止支店(1962−63)では、
ファサードの凸面カーブが一見シリンダーに見えるという手法をとった。
これこそが、白井作品の発想の原型であり、実はその美しい建物が京都の
目抜き通りにあったのだ。
当時、シリンダーという言葉が流行り、多くの人々
が 、その建物を表通りの向い側バス停から見て、そう表現した。 

      
      
*  あの時、私はどうしてその髭の御仁に出会ってしまったの
        だろうか。
        夕方だというのに一見寝とぼけたかのような顔つきで、
        しげしげとその建物を眺めていたその人は、私に尋ねた。
         「ここは・・・ 
(中略)
           
        何かおかしい、怪しいと子供心に思った。私は尋ねた。
         「失礼ですが、どなたでしょうか?」   
         「これは失礼。私は建築設計家の・・・」
(中略)
        
        そして、急に爛々と目が輝いて、別人のように凛々しい
        顔つきに 変わった。
         「シライセイイチは四角い箱の中心にこのシリンダーを通
          すことを考えた、
原爆堂・・アトミック カタストロフィだ
        
よく覚えておいてください」と大声で言った。私が英語を
        話せることを
知ってこんな言い方をしているのだと思った。 
        そして、やっと少し落ち着いて 
         「この建て物は遠くからみると、シリンダーに見えるね、
          スパイラルの階段室だね?」
         「いいえ、真直ぐの階段です」
        すると、驚いたように目を見張って、
         「えっ! ここから、廻り階段ではないの?
         「そこは待合室です。横に入り口のドアがあります」  
         
         「そうだったのか?
        
立ち話などしていてはいけないことになっていた。  
         「
バスに遅れますから。では、失礼します」 
        私は急いで元来た表通りの方へ、そしてその人は慣れた  
        ように裏通りの方へ、消えていった。 
           ・・・・・
       出来ることなら私は、終生このことを語りたくなかった。
       
全く不愉快な印象だったからである。
        しかし、今なお熱心にこの「原爆堂計画」をアピールする
       人があるので、語らざるを得なくなった。
       正に「神のみぞ知る」である。
       そして、最期の作品「びわこ湖北寮」を見たとき確信が
       持てた。
        白井晟一の原点にはその建物があったのだ、と。
        
―ー研究会誌「景窓」より・・・・・ 詳しくは 会誌をお読みください
        

Seiiti Sirai's Design Concept

(C)白井晟一研究会 All rights reserved.
2010.11.22.Last update  2010.5.30.Start
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photo by 白井晟一研究会
         2008. 7月

temple   subway   museum

Temple Atomic Catastrophes' Project